国内のエネルギー安定供給〜東日本大震災におけるわが社の取り組み〜

  • 国内のエネルギー安定供給 〜東日本大震災におけるわが社の取り組み〜

    STORY 1

    販売店のご家族に至るまで、安否確認を実施

     その瞬間を迎えたのは、山形県の販売店を訪問し、仙台にある支店へと戻る途中のことでした。高速道路上で激しい横揺れを体感し、車を停車。揺れが収まってから再び、仙台に向かって出発したのですが、途中で大渋滞や通行止めに遭遇し、その日に帰社することはできませんでした。
     翌日の午後には何とか出社したのですが、もちろん全員が揃っていたわけではなかったので、まずは社員とその家族、続いて担当エリアの山形、福島、宮城3県、60数店の販売店の経営者やそのご家族の安否確認からスタート。なかなか電話がつながらない状況の中、公衆電話や携帯電話のショートメールなど、色々な形で確認を取り続けました。壁に対象者の名前を貼りだし、確認が取れた方から印をつけていったのですが、そのたびに皆で拍手をしながら喜びを分かち合いました。私も、直接は関わりのない方々の安否確認に一喜一憂しながら、確認業務に没頭したものです。
     電話の復旧が進むにつれ、供給不安による問い合わせが殺到するようになりました。とにかく被災地で困っている販売店に優先して石油を届けたいという思いだけが先行。私が担当する、被害にあわれていない販売店には大変心苦しかったのですが、やはり苦しんでいる人を助けたい。それは職務を越えた使命感だったのだと思います。
     今年の4月からは本社での勤務となりましたが、東北の販売店さんと一緒になって乗り越えた当時の経験を忘れることなく、被災地の一刻も早い復興を祈りながら日々業務に邁進しています。

    販売部 販売二課 田嶋 祐樹 2004年入社
  • 国内のエネルギー安定供給 〜東日本大震災におけるわが社の取り組み〜

    STORY 2

    出光の動きと仙台の復興が連動していく

     当時は東北支店(仙台)の総務課に所属し、奇しくも防災担当としてマニュアル整備時に震災に遭遇しました。まず、支店にいた30名ほどの社員の安全確保を行った後、食糧など物資の調達に動きました。非常時にも関わらず、皆が自発的に動き、未曽有の事態に対応していくことができました。とはいえ、混乱の最中の東北では、食糧すら確保することが難しいのが現実でした。
     しかし、その不安は直ぐに解消されました。地震の翌日から本社をはじめ全国各地の事業所から、収まりきらない程の支援物資と共に社員が応援に駆け付けてくれたからです。「有事に強い出光」と言われますが、危機対応へのスピードと労を厭わない取組み姿勢に驚きと感銘を覚えました。中でも驚いたのはSS関係の業務に従事している社員や若手のみならず、マネジャーや研究者、関係会社の社員まで、オール出光としてのべ100名を超す全く異なる分野から集まった社員が、黙々と力の限り復旧に取り組んでいたことです。彼らは皆「東北に少しでも早く燃料油を安定供給したい。」という思いを行動で示していました。
     特に初期の混乱期は、現場、事務所ともに多くのお客様からガソリンや灯油の供給について問い合わせが殺到。本社スタッフや研究者が、慣れないながらも真摯に応対する姿から、出光が大切にする「尊重される人間となる(人間尊重)」の原点を感じ、身が引き締まる思いでした。
     私は総務担当者として、集まった支援物資を被災地に届ける手配、支援のために拡大した事務所や物資の管理、社員の衣食住の充実、そして、緊急時の対応のため、約1ヵ月半事務所に泊まり込みながら後方支援に徹しました。
     震災発生後、一日も休まずに早期復旧に努め、燃料供給を開始した出光のスピーディーな動きと連動するように、仙台の街が徐々に回復していきました。市中には本来の仕事に就けずに歯痒い思いで自宅待機せざる得ない人もいる中、多くの仲間と一致団結し、仕事を通じて復興に貢献できることに、私は誇りと遣り甲斐を感じました。改めて、私達が扱うエネルギーは人々の生活の中で欠かせないという事実と、我々が担う使命と責任を肌で感じました。
     現在は、人事部に所属し、社員研修を担当しています。当時の経験を踏まえ、社会から必要とされる仕事に携わっていることの醍醐味を、社員に身を持って伝えていきたいと考えています。

    人事部 教育課 佐藤 周治 2004年入社
  • 国内のエネルギー安定供給 〜東日本大震災におけるわが社の取り組み〜

    STORY 3

    販売店の社長と涙ながらに抱き合った

     岩手県の三陸沿岸地域を担当していたのですが、震災当日は沖縄へ出張に出ていました。交通網が混乱する中、翌日にようやく東京まで到達。現地にいる私の家族や販売店が心配だったので、千葉県に住んでいる親戚に車を借り、20時間かけて盛岡市まで戻ってきました。
     任務についた最初の仕事は、販売店の安否確認。最悪の事態を覚悟しながら、ひたすら電話し続けるしかありませんでした。同時に太平洋側の油槽所も被災したため、稼働しているのは日本海側の秋田油槽所のみ。一日に配送できるローリーの台数もごくわずかという状況のなか、担当者同士で協議し、SSのみならず、病院などの人命に係わる施設を優先するといった基準を定め、供給の手配を進めていきました。
     そんな中、ずっと連絡が取れずに心配していた被災地の販売店から電話が入り、ご家族みんなが無事であること、そして「油をください」という鬼気迫るメッセージをいただきました。何としても応えたいという想いから、秋田の運送会社へ無理を承知で被災地の釜石市へ配送を頼み込みました。運送会社も三陸沿岸への配送は初めてであり、道路の混乱状況も読めないため、私が先導することを条件に了解をいただき、「絶対に燃料を届ける」という想いで頭がいっぱいのなか、夜間の配送がスタート。
     被災地へ向かう途中、私が被災地へ向かったことに気付いた上司の高濱所長(当時)から電話が入りました。当然、まだ状況が明確でない被災地へ向かうことを諌められましたが、最後は私の想いを汲んでいただき、「絶対に無理しないと約束しろ。必ず無事に戻って来い。」とおっしゃってくれました。監督責任を問われかねないなか、部下を信じて、任せてくれた上司の熱い言葉は今でも忘れられません。
     5時間後、被災した釜石市に入ると、街は埃が舞い、怖いくらいの静寂に包まれていました。恐る恐る進んでいくと、自家発電で明かりを灯すSSが見えはじめたとき、側道に並ぶ給油待ちの車の数に圧倒されました。
     そして、SSの前で、埃まみれになっている社長を見つけ、「届けにきましたよ」という言葉と同時に、社長と抱き合ったことは昨日のことのように思い浮かびます。以降、釜石市への供給が開始され、震災との新たな戦いが始まりました。
     現在は、本社でSSまわりの販売政策を担当しています。自分が被災者でありながら、給油活動に徹した「販売店の使命感と強さ」、そして「販売店、関係会社を含む出光グループの絆」を忘れることなく、今度は私から被災地へパワーを届けたいと思います。

    販売部 販売一課 小林 謙一 2003年入社
※所属は取材当時のものです。

東日本大震災で実証された、人的結束力の強さ

 2011年3月11日に発生した東日本大震災がもたらした被害の甚大さは計り知れない。せめて、この困難を通して得た数々の教訓を後世に伝えるのが我々の責務であろう。
 わが出光興産の対処を振り返ると、内外の評価が高かったことのひとつに、塩釜製油所の開放がある。製油所自体の被害や道路の寸断から、被災地への供給に困難を強いられた元売り5社に対して、塩釜製油所の共同利用を呼び掛けたのである。「一刻を争う被災地の救援こそが最優先されるべき」としてのこの決断は、出光の理念「人間尊重」のまさに具現化であった。
  深刻なガソリン不足で、救援物資の運搬もままならない被災地への供給には、タンクローリーのほかにドラム缶による出荷が行われた。ドラム缶はタンクがない場所や輸送手段が限られる場所への供給に最適である。約1,400本のドラム缶を新潟油槽所が出荷したのをはじめとして、各地の油槽所が独自の判断で東北支援を第一義として応援体制を機能させた。出光社員の自主的行動はもちろんのこと、各地の販売店の素早い反応と惜しみない協力も忘れ難い。日頃から「独立自治」の考えが浸透しているからこその、即断即決と迅速な行動であったのだろう。
  実際に甚大な被害を受けた東北各地のSSのご苦労は筆舌に尽くし難い。出光東北支店管内454SSのうち、13日の時点での営業可能店舗は221のみ。出光東北支店の面々は自ら被災しながら、真っ先にこれら被災SSの復旧のために奔走した。その先に救援を待ち、寒さに震える多くの被災者を心に浮かべて走り回る彼らに、全国の販売店や出光の社員も骨身を削る協力を惜しまなかった。東北支店に直接食料や水を運んでくる販売店も多々あり、出光と販売店との家族のような絆の深さを認識する日々であった。いわば大家族から届く人的援助や温かい励ましが何よりの力になり、「有事に強い出光」を実感したと、被災SSの方々も口を揃えている。
  誰かの指示に従うのではなく、なすべきことを社員一人一人が見極め、行動に移し、協力し合う結束力こそ、わが出光の最も大きな宝である。その宝を守り、これからも東北の復興に力を注ぎつつ、一致団結して、社会に貢献する企業の理念を全うしていきたい。