グローバル資源人

グローバル資源人・出光の挑戦
摂氏50度の砂漠に、燃える夢

「まだ独身だったよね。」

1980年、2月の東京。
出光興産の本社ビル、7階の手洗いで並んだ須田に、上司の鈴木が声をかけた。
「あ、はい。」
30歳になったばかりの須田が、見合い相手でも紹介されるのかと思った矢先に鈴木は続けた。
「中東にいけないか?」
かつて石油の生産・販売では、メジャーと呼ばれる国際石油資本が圧倒的な力をもっていた。
しかし1970年代に入ると、二度の石油ショックを経て、
産油国は次々と石油生産会社を国有化し、取引の決定権を握っていく。
「産油国の時代」の到来である。
そんな中、出光は1973年に日本の石油企業では初めて中東に事務所を開設。
以来、中東での体制を拡充し、産油国との直接取引は徐々に拡大しつつあった。

クウェートか、アブダビか、まさか革命の渦中のテヘランでは…。
そんな須田の思いを見透かしたかのように、鈴木は続けた。
「サウジアラビアのダーランなんだがね。」
「え、ダーランには事務所はない、ですよね…」
「そう、新規開設だな。」
「要員は何人です?」
「キミ一人だ。」

エネルギーの安定供給を使命とする出光にとって、
消費国への穏健な姿勢を保っていたサウジは、是非とも関係を強化していきたい産油国であった。
すでに、首都リヤドには事務所を置いていたが、
この際サウジの石油公社のオペレーション機能が集中するダーランに事務所を移し、
常駐体制で本腰を入れよう、というのである。

1980年6月。
気温50℃、焼けつくような日差しのリヤド空港に降り立った須田は、
タクシーの運転手に、まだ数えるほどしか覚えていないアラビア語を告げた。
「フンドク アルコザマ ミンファドラック。」
通じたのか、通じなかったのか、タクシーは走り出した。
その言葉を英語にすれば「アルコザマ・ホテル プリーズ」。
そんな、なんということのない英語ですら、当時のサウジの街中では通じない。
仕事だけでなく、まずこの土地で生きていくことに、須田は必死にならざるを得なかった。

「石油がだめなら、LPGを増やせないか。」
石油公社の事務所で、須田は問いかけた。
「どうだろう。」
いままでの談笑がとまり、みな黙ってケーキを食べ、
アラビックコーヒーを口に運んでいる。

須田が、サウジに赴任してから、すでに1年がたった。
すっかり肌も日に焼け、見た目にもたくましい。
この頃、須田はイスラム圏の休日である金曜の前日、つまり木曜の午後には、
必ずケーキをもってその石油公社の事務所を訪れるようになっていた。
目の前の折衝ごとや、仕事の話をするためではない。
ただ世間話の赴くところ、自然に日本という国や出光という企業のあり方を話し、
求めがあれば、日本の石油企業ならではの情報を提供するだけである。
だがこの日の須田は、いつになく力を込めて話した。
須田の当初の狙いは、サウジとの原油契約量を増やすことだった。
だが、いきなり原油の契約量を増やそうとしても、
そのハードルはあまりにも高いことに気づかされた。
石油メジャーの存在、アラブならではの慣習、
さらに出光自身がサウジにとっては新参者にすぎない。
そこで、まずはLPG(液化石油ガス)取引の増量を目指すことにしたのである。

新たな契約に向けたトップ交渉が間近となった日、
茶飲み仲間の一人だったあるマネージャーが須田に話しかけてきた。
「LPGの話だがね。一部の条件を緩めるなら、可能性は高くなると思う。」
ひとしきり具体的な話を続けた後、そのマネージャーは言った。
「出光のひたむきな姿勢に共感している。だからこそのアドバイスだ。」

そのアドバイスに沿った折衝の結果、新たな契約が交わされた。
年間供給量、45万トン。
これまでの15万トンから、一気に3倍に引き上げられたことになる。
それは当時、サウジで最大の増量だった。

サウジアラビアは、イスラムの国である。
もちろんアルコールを飲むことは許されない。
その日、須田たちはホテルの一室に集まり、ノンアルコールビールで祝杯をあげた。
そのビールは須田にとって、これまでに飲んだどんな酒よりも甘美で、芳醇な味がした。

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